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九鬼嘉隆 Kuki Yoshitaka (1542-1600)
鳥羽城主九鬼嘉隆は海上戦術に優れ水軍の将として織田信長、豊臣秀吉のもとでその才能を発揮していた。秀吉の命を受けて大艦船「日本丸」を建造し、朝鮮出兵の折には主力水軍としてその他を轟かせた。しかし、晩年には関が原の戦い(1600年)において親子が東西に分かれて戦うことになり、敗軍に組し自害した。
御木本幸吉 Mikimoto Kokichi (1858-1954)
「世の中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます。」真珠王・御木本幸吉が明治天皇に拝謁した際、申し上げた言葉である。商人としてさまざまな経験を積む中で真珠と運命的な出会いを果たし、真珠の魅力にとりつかれた幸吉は試行錯誤や失敗を繰り返しながら「養殖真珠発明」という夢にまい進する。そして1893年ついに苦労が向かわれ、半円形ながら世界で始めての養殖真珠5個が鳥羽の相馬(現・ミキモト真珠島)で誕生した。
江戸川乱歩 Edogawa Ranpo (1894-1965)
江戸川乱歩は小説家としてデビューする以前に1年半ほど鳥羽に住んでいた。彼の妻、隆も鳥羽の坂手島出身である。鳥羽の風俗研究家岩田準一と交流があり、ともに男色に関する資料収集などを行った。彼の作品中には舞台のモデルとして鳥羽はよく登場しており、のちに書かれた「パノラマ島奇談」の舞台は鳥羽であるといわれている。
岩田準一 Iwata Junichi (1900-1945)
岩田準一は鳥羽生まれの画家であり、風俗研究家であった。竹久夢二に師事し夢二の画風をそのまま受け継いだ準一は夢二の代作を務めるまでになり、夢二本人に「日本一の夢二通」と言わせた。また、志摩地方の海女や「はしりかね」と呼ばせる船遊女をテーマにした民族研究でも成果を残している。江戸川乱歩が鳥羽で過ごしていた頃より交流を持ち続けのちに「パノラマ島奇談」「踊る一寸法師「鏡地獄」」の挿絵を担当する。男色研究をライフワークとし乱歩とともに収集した文献を元に「本朝男色考」を著した。この著書は英語・フランス語に訳され外国でも出版された。
伊良子清白 Irako Seihaku (1877-1946)
伊良子清白は鳥羽小浜で村医をしながら詩作を続けた詩人である。歌詩「白鳥」を創刊するなどの詩作活動では中央文壇からも高く評価され鳥羽の文化活動に貢献した。清白の作品は「安乗の稚児」の一説や「参宮船」の歌碑が小浜にある。
写真:正法寺(しょうぼうじ)境内にある伊良子清白の詩碑
門野幾之進 Kadono Ikunoshin (1856-1943)
門野幾之進は教育者であり、実業家でもあった。14歳で上京し、慶応義塾で英語を学び教頭となった。その後、国会議員を経て実業界に進出し、日本の大手保険会社8社の一角を占めた千代田生命を創立した。実業家でありながら郷土愛にあふれ地元の教育振興に尽くした。
写真:門野幾之進記念館
近藤真琴 Kondo Makoto (1831-1886)
近藤真琴は鳥羽商船高等専門学校の創始者。日本の発展には海運が必要と自ら航海術や測量、造船等諸学を学び、海軍に入り、航海術を教授、その間私塾「攻玉社」を開き海員の育成に尽くした。鳥羽商船学校の創設は真琴の念願であり、故郷への思いであった。
写真:近藤真琴記念碑
三島由紀夫 Mishima Yukio (1925-1970)
戦後日本を代表する小説家・戯曲家、三島由紀夫は取材のため鳥羽の神島を訪れ神島の組合長宅を宿とし、純愛小説「潮騒」の構想を練った。彼は「ここには本当の生活がある。」と友人への手紙を書き残している。
昭和45年11月25日、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し、割腹自殺を遂げ、世間を騒然とさせた。
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